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トウホウケンブンロク 東方見聞録 (原題:世界の叙述) >>関連項目一覧


とうほうけんぶんろく。東方見聞録とはイタリア、ヴェネチア商人マルコ・ポーロが元(フビライ・ハンの治世)など で商売を成功させ富をなして帰国後、その東方旅行(1271-1295)の半生を旅行記・体験談にまとめたもの。1298年成立?
日本訳の題名『東方旅行記』『マルコ・ポーロ旅行記』等。
原題『世界の叙述』Description of the world という説明もあるが題名は当時からまちまち。
マルコ・ポーロ最晩年は1324年1月9日病床で神父を呼んで遺言状作成、1325年6月以前に亡くなったらしい。

この書によってヨーロッパにはじめて「日本」(チパング Chipangu、ジパング)のことが伝えられた。 「黄金を多量に産するが持ち出しが禁ぜられ、かつ非常に遠いので行くものが少なく、流出量も少ない」 「王の宮殿にはおびただしく黄金がもちいられ屋根、床などには、すべて黄金をもちいていること」 「赤と白の真珠が無限に多く、死体を土葬にするとき、その口真珠をふくませること」などをのべている。
(*辞典筆者注:し黄金を多量に使った宮殿としては当時奥州平泉の中尊寺金色堂など総金箔張りの寺社建物が多くあり、 東北、日本海を 通じて大陸にも情報が伝わっていてもおかしくはない)

ほかの国のことも含め内容全体におおげさな誇張や伝聞や噂の類もおおいにはいっていて 、必ずしも正しいことばかりではないがアジアのことを伝えた意義は大きい。
それまでのどのような記録よりも、中央アジア、中国、チベット、ビルマ、日本について、 ヨーロッパで古くから知られながら産地のわからなかった香料を産する赤道の島々、 セイロンの宝石、インドのダイアモンド、マアバル真珠など多くを直接見聞きし、または伝聞で聞いた。

マルコ・ポーロの名が「おおぼらふき」という意味でシェークスピアの著作にでるほど 彼の知った知識は当時のヨーロッパ人にとって想像外で理解不能なものだった。
その後多くのヨーロッパ人がアジアへ旅行するにつれて、この書の記事の正確さが知られるに至ったようだ。
そしてこの書がスペイン国とコロンブスのアメリカ発見の機縁となり、中央アジア探検のスタインやヘディンなどを 動かしたのは歴史的事実だろう。探検に書を持参し結果と比較して13世紀の記事として非常に正確だといっている。

マルコ・ポーロは帰国後、当時の都市国家間の抗争のさい捕虜となり、 その間に同じく捕らわれていた作家ルスティケロ(ルスティシエン・ド・ピーズ) と知り合い、マルコに了解をもらい、一大旅行記を一書にまとめようということになった。 マルコの口述を書きとめ、またマルコが持ち帰ったノートやおぼえ書きも送ってもらって それらを基礎に旅行記としてまとめた。 1298年(捕虜になった年)にはできたらしい。 マルコが捕虜になっていたのは1年くらいらしい。 書き上げてまもなくマルコは自由の身になり、ルスティケロも休戦条約にもとづいて 自由の身になった。

この書は日本でも諸外国でも書名はまちまちだという。 「百万」のマルコ(のちにおおぼらふきを意味する語になるあだ名) は当時大変話題になり、多くの人がマルコから旅の話を聞き、多くの見聞録が 広まっていたらしい。 ルスティケロのものも、写本ができる場合でも写した人間が自分の聞いた内容を書き加えるなど 存命中にすでに内容のことなる書がいくつかあったようだ。 その後ルスティケロの原本自体は早く散逸し潤色、加筆、部分削除された諸テキストができ、

そのような幾多の変遷を経て、題名もまちまち、現在にいたるまで内容の異なる写本、刊本が多くあるということである。 これらの異本は、ムールとペリオとの共編によって校合 (きょうごう)のうえ出版されている。 なお1500年頃、伝説化やまないマルコ・ポーロについてラムージオがヴェネチアに取材し、 「ポーロ家の最後人々から直接話をきいた」老人に尋ねて記録を残している。ラムージオは見聞録のイタリア語訳 をめざしていた。

見聞録の 内容は大きく2つに分けられる。 第1部はマルコ個人の談話形式で旅行の概要。 父ニコロと叔父マフェオがコンスタンティノープルを出発し、 キプチャク・ハーンの都サライ経由でフビライの宮廷へおもむき、 さらにローマ法王への特使としてヨーロッパへもどり、その後マルコをともなっての二回目の旅行と、 帰国の許可をへてペルシア(イラン)に帰った事情などが叙述を簡単に述べている。 第2部はニコロとマフェオの第1回の旅行も含む地理書としての内容を持つ。
小アジア、小アルメニア、ペルシア(イラン)、パミール、東トルキスタン、中央アジア、 甘粛(かんしゅく)、長安(西安)を経て中国北辺を横断し、上都(内モンゴル自治区)フビライ宮廷到着 フビライ宮廷に仕官、中国人の記録にはみられない元朝の宮廷内の事情、モンゴル人の風俗、中国各地( 河北、陝西(せんせい)、四川(しせん)から雲南、山東、浙江(せっこう)、福建  揚子江の多数の船、杭州等、広く中国各地を旅行 )、福建のザイトン(泉州)出帆からインドシナ、ジャワ、マレー、セイロン(スリランカ)、 インドのマラバルなどを経由し、ペルシアのホルムズまでの帰国路 、13世紀後半の蒙古の諸ハーンの戦争・内紛についても述べている。

参考資料
・マルコ・ポーロ 東方見聞録 (教養文庫)
・日本大百科全書 (執筆者:護 雅夫 小学館)
-『東方見聞録』全二冊 (愛宕松男訳・注 平凡社・東洋文庫)




 
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