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ポェ・パの神話・民話 ●関連項目一覧● チベットという呼称が知られるが、ポェ・パが自称(パは人の意)。またはポパとも。 チベットの語は唐の時代、中国で吐蕃と呼ばれたのがチュルク人にティピットと呼ばれ、それがヨーロッパに伝わりTibetになり、日本へはヨーロッパから伝わった。 また、カム地方に住むポェ・パはカム・パ(カンパ)、メンという土地ではメン・パ、チャムド(昌都)ではチャム・パと自称する。 あるいはカム地方の男性をカンパ、女性はカンモ等と呼ぶ。 外国人が使っているラマ教、チベット仏教とポェ・パ地域の仏教を指す語も、本来、ポェ・パ語では「サン・ゲエ・キ・テン・パ(仏陀の教示の意。仏教)」、「チュー(法)」である。ちなみにラマは「師匠」の意である。 最初にポェ・パに統一王朝を築いたのはソンツェン・ガンポ王だという。成人した王がネパール王女ティツンと結婚したのが7世紀初め頃だという。 ソンツェン・ガンポ王は自国の文字を制定するため、インドに17人の青年を派遣してサンスクリット語をならわせた。ただ一人生還したトゥンミ・サンボータがサンスクリット語では表せない音を含めたポェ・パの文字を考案した。 王の息子が王位につくと唐の太宗皇帝の娘、文成公主を妃に迎えた。仏像を携えて嫁いできたティツンも、文成公主も熱心な仏教徒だった。 ソンツェン・ガンポ王も仏教に帰依し、後に人々から国に仏教を導入した聖王と讃えられた。 8世紀後半、ティソン・デツェン王の時代が王国の最盛期で、唐の長安や、敦煌、河西回廊一帯まで勢力圏を拡げた。また、伝統的なボン教を信仰する人達の反対を抑え、インドから僧を招聘し、最初の僧院を建立。仏教を国教と定めた。 その後、841年にボン教徒のランダルマ王の時代、暗殺されるまでの在位2年間で仏教への弾圧は熾烈を極め、中央から仏教は払拭されたが、東西の地までは生き残った。人々はダルマ王の仏教徒への極刑も辞さない政策を恐れ、丑(うし)のダルマ、ランダルマと呼び憎悪した。 王の暗殺後、王国は分裂、ランダルマ王の息子、ナムデ・ウースンは西部のンガリ地方にグゲ王国を築いた。王は仏教徒であり、そのひ孫イシェウ王も信仰心の厚い王だった。イシェウ王は衰退した仏教を復興させるためインドへ21名の青年を遣わし、生きて戻れた2名にサンスクリット語の経典を訳させ、僧院を建立した。 またインドから僧を招こうとしたが、ヒンドゥー教やイスラム教の間で、インドでも仏教が衰退しつつあるとの理由で僧アティーシャに断られる。それを献上した黄金の量が不足していたためと思った王は隣国に戦いをしかけたが捕らえられる。 敵国の王に仏教を捨てないなら、体重と同じ量の黄金を身代金に払えば釈放すると言ったが、イシェウは黄金を持ってきた家臣に老いた自分のために使わず僧を招くため使うように遺言して死んだ。 僧アティーシャは、自分の守護尊のターラ菩薩の啓示も受け、グゲ王国に赴き、各地に寺院を建立し、仏典の改訂なども行い復興をすすめた。 関連項目一覧
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