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クナシリ 国後島 くなしり >>関連項目一覧


アイヌ民族が先住していた島。江戸時代末期に帝政ロシアとの間で千島列島の国境線が定まり日本領となっている。 第二次世界大戦末期の混乱に乗じて旧ソ連(ロシア)に占拠された、いわゆる「北方領土」4島のひとつ。
島名の語源はアイヌ語でクンネ・シルまたはキナ・シルからきているという。
「クンネkunne」は「黒い、暗い」の意味。
「キナkina」は「草、野草」の意味。
「シルshr」は「大地、島、山地、山」の意味。
千島列島-カムチャッカはアイヌの地名が残っている。カムチャッカはアイヌ語カムサスカのことである。
他にも「-シル」と名前のついた島があり、 シムシル(新知島)、ウシシル(宇志知島)、ムシル(牟知列島)、パラムシル(幌筵島)などの名前が18世紀の記録にある。
ロシアの軍人ゴロウニンの報告ではクナシリは「クナシル Куиаширъ?」という島名になっている。
千島の島々では2番目に高いチャチャヌプリ(チャチャ山)がある。

クナシリは本島との行き来が容易であったらしくある程度の人口のアイヌが住んでいたようだ。
1798年頃から蝦夷地調査を任命された近藤重蔵の書状ではクナシリ島にもアイヌの首長がいると書かれている。
オオワシ羽の産地でもあったという。「ケシイラツフウイテクル」というワシの羽根は宝物として珍重されたという。
しかし産地の厚岸(あつけし)、根室、クナシリ島の首長は所有してなく、厚岸の総首長イコトイだけが持っている、と書かれている。

江戸時代以降の歴史では、幕府老中の田沼意次が命じた蝦夷地開拓の調査団が国後島に公儀商人の運上屋(交易所)を 置いたりした。(1786年[天明6年])最上徳内が千島列島をウルップ島まで調査したがシモシリ島には海が荒れて渡れなかった。 この時ウルップ島のロシア人住居跡や難破船などを見ている。(この時点でウルップ島は日本・ロシアともに無人状態)

1789年、「クナシリ・メナシの戦い」がおきる。クナシリ場所請負の飛騨屋にクナシリ島のアイヌが蜂起。 呼応して北海道本島メナシのアイヌとあわせて130人が施設や交易船を襲い。和人71人が殺害された。 翌年、道南和人地の日本人3000人も場所請負人追放を目指して一揆を起こしている。
場所請負人がアイヌに過酷な漁場労働を強いていたことが当時の記録で知られている。

1798年(寛政10年)7月、近藤重蔵の命で最上徳内は再び蝦夷地調査に加わりクナシリ北端アトイヤ岬で合流。択捉(エトロフ)に渡り 「大日本恵登呂府」の碑を建てる。この時の千島列島の調査は択捉南端にとどまる。 クナシリまでは容易に渡れるが、エトロフへは安全な航路が見つかっていなかった。後に高田屋可嘉兵衛 によって航路が発見される。(その後はエトロフに17の漁場が開かれ、各村の酋長に経営をまかせ「近藤島」とよばれるほど豊かになったとか)

1799年(寛政11年)1月、松前藩が北方警備、アイヌ待遇改善の努力を行っていなかった事からか東蝦夷が幕府直轄地となる。

1801年(享和元年)、調査隊隊長富山元十郎がウルップ島に「天地長久大日本属島」という碑を建て、居住していたロシア人に退去を求めたが 当然応ぜず、役人はエトロフのアイヌにウルップのロシア人との取引を禁じた。一年後、ロシア人の姿はなく住居跡が残っていたという。

1803年(享和三年)、幕府は松前藩を召し上げ、函館奉行の永久直轄にした。

1807年(文化4年)、レザノフ使節団がエトロフなどを襲撃する。ラクスマンが正式にもらった長崎入港許可の信牌を持って長崎を訪れたにも関わらず、半年間待たされ、 ロシア皇帝の親書も受け取らず通商も拒否され立ち去るよう通告された復讐の海賊行為だった。
レザノフは帰国途中で病死、実行犯の部下二名は逮捕されたが、二国間に緊張が残った。(双方、カムチャッカ、蝦夷地の防備を強化)

1811年(文化8年)、海軍少佐ゴローニンが千島調査の途中、水・食料の補給が必要で日本領へ訪れる。
ゴローニンは砲撃などされても応ぜず、平和的対応をしたつもりだったが日本の軍事的緊張感は高く、クナシリ島の会見の場で捕縛された。
[以下、ゴロウニンの著述からの大まかな抜粋]
クナシリ島近海へ訪れる。各所の海、湾の深さを測った。ボートで岸に向かうのを砲撃されたり、岸でかがり火がたかれたりした。
日本の要塞に向けて桶に品物や訪問理由の絵を入れて流した。後日、日本人が返答の桶を浮かべてきたので見たが意味がわからなかった。
日本名ケラムイ(計羅武威)という洲の部落へ上陸(日本風の小屋やアイヌの掘立小屋があった)、飲料水はなく薪と穀物を入手して代りの品物を残してきた。その後川で淡水を入手するなどした。
7月9日(ロシア側)、クリル人(アイヌ人)の使者が要塞からきて交渉したいという。(ロシア船側にもクリル人の通訳がいる)
最初の上陸では要塞には入らず日本人と会話。飲料水を積み込む。またたくさんの魚を贈られた。 7月11日、日本人を信頼して武器をもたず上陸。要塞内部に入ったところで捕虜にされた。
ゴローニンは千島列島全島のうちクナシリが船舶の寄泊に最良の湾があった(航洋の大型船が入れる湾はほかには皆無)といっている。

ゴローニンは2年間監禁され取調べなど受けるが副船長リコルドの尽力と捕虜にした高田屋可嘉兵衛の働きで、
日本側はロシア政府代理イルクーツク長官署名の日本沿岸略奪行為の正式な陳謝状を受け取り捕虜を釈放した。
このとき略式ながら無人になっているウルップ島を両国が手を触れないこととして国境とした。

後に幕末、ロシアのプチャーチン提督と徳川幕府の交渉でエトロフ・ウルップ間が国境となる。
その後も千島列島の国境については紆余曲折あるが割愛する。

明治政府以降の日本領千島の島々は軍事的な意味やラッコ等の保護・密猟禁止のため一般人の立ち入りは ほとんど禁止されていた。
*1875年 千島アイヌ・樺太久里留交換条約により アレウト人は条約に定められた3年間でロシア領へ立ち退いた。 1884年、残っていた人々97名は日本政府が住宅などを用意しシコタン島へ移住。

1920年頃の日本領千島列島を調査したステン・ベルクマン氏の『千島紀行』でも当時の千島の様子、 クナシリ島の様子 がつづられている。漁業のほか、アイヌの人々の狩りの様子などがわかる。

参考資料
アイヌ語絵入り辞典 (知里高央/横山孝雄:共著 蝸牛社)
アイヌの歴史 海と宝のノマド (瀬川拓郎:著 講談社)
南千島探検始末記 (ワシリー・ゴロウニン:著 徳力真太郎:訳 同時代社)
千島紀行 (ステン・ベルクマン:著 加納一郎:訳 朝日文庫)
風雲児たち (みなもと太郎:著)
[蝦夷地関連は第三期幕府鳴動編、四期憂国苦闘編などに収録]

 
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